シネマ道楽の目次へ   ホームヘもどる
カエル 映画日記1月号その2…『リトル・ミス・サンシャイン』



画面いっぱいにミスコングランプリ決定の瞬間を映し出したテレビ画像が映る。輝く笑顔、白い歯がこぼれる…巻き戻し、再び輝く笑顔、 白い歯…うーん。巻き戻しをしていた主はまだ小学生の女の子だ。画面の前で無心になって笑顔を作る練習をしているのだが、どうみても ポッチャリタイプのどこにでもいそうな子だ。

『リトル・ミス・サンシャイン』美少女コンテストの映画、ポッチャリとした子がどんどん美しく可愛らしくなっていくアメリカ流サクセ ス・ストーリーか。

その父親。どこかの講演会場で、自分で開発した独自の成功論を熱弁している。キャメラがスーッと引くと、受講者は成功とはどう考えて も無縁といったなりの黒人やヒスパニック系の者が数名、バラバラに気のない拍手がパラパラっとおきる。

どうも様子が変である。確かにこの映画は「リトル・ミス・サンシャイン」といういかにもカリフォルニア的な名前の美少女コンテストを めざしアリゾナから一路カリフォルニアへ旅をする一家の物語ではあるのだが、そもそもその配役をみれば、何かが違うのがわかって しまう。グレッグ・キニア、トニ・コレット、アラン・アーキン。失礼だが理想の家族にはとても見えない。

フーヴァー一家の顔ぶれをご紹介しよう。一家の柱父親(グレッグ・キニア)は現在「独自の成功論」を本にしようと売り込みをしている。 実際こういうのがアメリカでは流行っているようで、日本でもCS放送でこのてのビデオのコマーシャルが流されている。しかし、彼自身が まるで成功していないのに、そんなものが売れるわけもなく、編集者からは「そのうちに本にしよう」などと軽くあしらわれている。しか し彼はまだそのことに気づいていない。

母(トニ・コレット)は自殺未遂を起こした兄フランクを病院に迎えに行く。途中車の中で彼女はタバコをプカプカ吸いまくっているのだが、今のア メリカ映画ではそれは、落ちこぼれた人という意味が少なからずあることに思いをはせられたい。

彼女の兄はなぜ自殺未遂を起こしたか。彼はプルーストの研究者で自分は全米で一番であるというのを誇りにしているが、その実一番には なれなくて、おまけにゲイの恋人には振られ、その恋人が選んだ相手とは、本当に全米で一番に選ばれた人だったというおまけまでつき、 絶望したのだった。この自殺未遂のため大学まで首になってしまい、行くあてもなくフーヴァー家に引き取られることになる。

祖父のアラン・アーキンは、やたらに元気だが、コカインをやったりやたら危ない。

「リトル・ミス・サンシャイン」をめざすオリーヴの兄は空軍士官学校に入るまでは沈黙を貫きとおすといって言葉をしゃべらない。なん のことはない、ただの登校拒否の男の子である。

一家のマイホームは、かつては夢をもってインテリアも揃えられた面影はあるものの、今では散らかりっぱなしでなんだか澱んだ空気が 流れている。夕食は「健全な」家族らしく一家全員が食卓に揃う。今日のメニューはファーストフード店で買ってきたフライド・チキンだ。 「またチキンか。毎日フライド・チキンじゃないか!!もうウンザリだ」怒りまくる祖父。フランクの手の包帯に気づいたオリーヴは子供ら しい好奇心をのぞかせ、なんでそんなのをしているのかと尋ねる。隠したい父は話題を変えようとするが、正直にフランクが答えると今度は 自分のご自慢の成功理論「9ステップ・プログラム」を持ち出し、「負け犬」とののしる始末。祖父は祖父で「ホモ野郎」などと罵詈雑言 をフランクに浴びせている。食卓はメチャクチャだ。うんざりとしたオリーヴの兄は、フランクに「家族なんて大嫌い」と書きなぐったメ モを見せる。一家のすべての者が問題を抱え、しかもそれを問題とはせずに、勝手な方向を向いているのがわかる見事な食事シーンである。

アメリカ的な価値観からすれば、彼ら一家こそ実は負け犬である。しかしそれを認めないところに彼らの病理がある。この父親にかかれば、 口を利かない長兄も目標のために耐えていて、意志が強く大したものだということになってしまう。「負けは決して認めない」「常に前向 きに、楽観的に生きていく」この成功理論、実はここにアメリカの病がある。

アメリカの病とは何か。ポジティブ・シンキングができない人はダメな人であるという理念。しかも「ポジティブ・シンキングの人たちに 共通しているのは、自分の生き方、考え方が絶対に正しいと思っており、それを強引に人に押し付けようとする、そして人の話を決して聞 こうとしないことだ」(新潮新書「アメリカ病」矢部武著より)という。こういうのが、アメリカ全体にはびこっている。

ちょっと前の映画を思い出してみても実はそんなシーンに出くわすことがある。例えば『ムーンライト・マイル』突然娘を失った父親に お葬式に来た人たちが励ましの言葉をかける。そしてその中の数人が「親族を亡くしたときに立ち直る本」みたいなハウ・トゥ本をプレゼ ントしていく。「明るくなれ」「頑張れ」誰がそんな本をプレゼントしてほしいだろうか。しかし、アメリカの社会は具合の悪い重病人に まで「明るくなれ」という残酷な言葉をかけることが結構普通にあるという。父親は皆が帰った後、本を暖炉の火にくべてしまう。それがせめて もの抵抗か。

タバコなんか吸っている人は意志の弱いダメ人間だ。ダイエットもできない太った人間はもうそれだけで負け犬だ。健康管理のできない 人間はダメ人間だ。そんな強迫観念が、アメリカ人の間には確かに存在する。彼らはこぞってフィットネス・クラブに通い、健康食品を 買いあさり、歯科矯正や整形手術に通う。「意志の弱い人間」は企業も雇いたがらない。挙句太っているというだけで、面接では落とさ れてしまう。とはいえ、それは本人の意志の強い弱いだけの問題ではない。結局お金がある人にはそうしたことも可能なのだろうが 、ない者にはどうにもならないわけで、それがいっそうの差別、偏見に拍車をかけているという悪循環。

こうしてみると、父親の言う「9ステップ・プログラム」は決して珍しいものでもなんでもなく、むしろすでに語りつくされ、アメリカで はごくごく当たり前のものであることがわかる。

さて、この負け犬一家が一家の希望をかけて、あるいはフランクが自殺未遂を起こしたためひとりにはさせられないという事情からいやい やながら、また経済的事情からオンボロのフォルックス・ワーゲン・ミニバスでカリフォルニアのミス・コンテストの会場まで旅をする のがこの映画のメインの物語である。食卓でさえ、怒号や無関心がはびこったこの一家、狭い車内の中でトラブルが続発するのを想像するのは容易なこと であろう。この映画はそれを「深刻」にではなくあくまで面白おかしく、ヒューマン・コメディとしてみせるところが大変にいい。

アリゾナからカリフォルニアまで。我々日本人が思い浮かべるアリゾナとは、「アリゾナ大平原」「サボテンと砂漠の土地」「グランド・ キャニオン渓谷」であるが、実はそれだけでなく、大企業の誘致にも成功し貧富の差が大きい州という一面も持っている。負け犬のこの一 家はいわばそんな現実から逃れるべく、かつては黄金郷とされたカリフォルニアに向けて、夢を追い求めて旅をすることになるわけだ。 「ゴー・ウエスト」もちろん開拓時代の民のように何もない砂漠の一本道を通っていくわけなので、途中家族以外に助けてくれるものもい ない旅であり、そこから逃げることもできない旅という風にならざるを得ないのも、物語上意味が大きい。

また、このオンボロバスはいかにもこの一家を象徴している。黄色い色は、いかにも時代遅れである。幸せの象徴あるいは愛の象徴という 意味で使われているのであろうか。あるいは臆病という意味があるのだろうか。いずれにしてもこの家族には皮肉な色でもある。そして このワーゲン、困ったことに一速から二速にギア・チェンジするとき、何かがひっかかってしまい変えることができない。問題を抱え ながら辛うじて走っているというのは、まさにこの一家そのものだ。

そしてこの車を走らせるのには、みんなで後ろを押してやらなければならない。学者のフランクなどは「プルースト研究の第一人者の私が なんでこんなことをしなくちゃならないんだ」などとぶつぶつ言いながら車を押していてなんとも可笑しい。しかし、車が走り出せば走り 出したで、車に追いつき飛び乗らなくてはならないから、そんなことを言っている暇もなくなってしまう。学者だろうがなんだろうが、 プライドなんか持っている余裕さえもたせない。必死に押して必死に家族重なり合いながら飛び乗って、こうした行動を繰り返す中で 段々にそれぞれの殻を打ち破り、一家がひとつにまとまっていくというわけである。

しかし家族がひとつになっていく過程はそんなに容易なものではない。そこには失われていったものもたくさんある。それぞれの夢やプライドその他さまざまなものが壊れ、あるいは失 われていく。彼らはその中で背を向けてきたものに正面から向かいあわざるを得なくなっていくのである。ときにそこから逃げ出したいと 思う者もいる。しかし、彼らには目的があり、また砂漠の中にひとり置いていけないという事情からも、助けあわざるを得なくなる。時に それは温かい言葉であったり、ただ単に肩を抱くだけであったり、あるいは揃って英雄的な行為?でもって危機を乗り越えたり、方法は色々 ではあるが…、その過程を経てやっと家族はひとつになっていくのだ。オンボロバスが段々に傷んでいくのと平行して家族ひとりひとりの 心も実は傷ついていったのである。そこまで追い詰められていって初めて温かさを知るというのがとてもいいのだ。

家族がひとつにまとまって、それでやっとたどりついたミスコンの会場。果たして結果は…

この映画は、アメリカ型の成功ストーリーではない。それどころか勝ちとか負けとかの価値観さえ否定している。とはいえ、頑張らなくて いいと言っているわけではない。頑張ることは大切なこととしてはいる。しかし、その結果がどうあれ、やるだけやって自分らしく生きら れればそれでいいじゃない。そんなスタンスがある。アメリカ流のポジディブ・シンキングを否定し、真の意味でのポジティブ・シンキン グを目ざした映画ともいえる。こうでなくてはいけないというのではなくて、こうあってもいいじゃないといったスタンスだ。

共同監督のジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリスは実はご夫婦であり、三人の子供がいるという。ハリウッドで大もうけしよう というのではなくて、あくまでも自分たちの作りたいものを作るという立場で映画を作っているようだ。この映画にも5年もの歳月を かけたということである。この映画は彼らが子供たちに普段教えていたことでもあり、彼らの生き方をも反映しているのだろう。 それゆえに説得力があり、観終わって押し付けがましさもない。爽やかでさえある。

今日本でも、この映画の作者たちが否定したアメリカ的な価値観がはびこりはじめている。「努力をすれば報われる社会を作る」といいなが ら、努力したからって報われない人たちが大勢いる。事情で自分の住んでいる土地を離れられない人たち、資格を取ったところで、賃金が 10円しかあがらない職場にしがみつくしかない人たち。人には様々な事情がある。それに対して「貧しいのは努力をしないからだ」の ひとことで片付けてしまう社会。そういう人たちへの援助を次々と切り捨てる社会。技術力よりも経済的効率を求める社会。そのことが ひとつの生き方、価値観以外を否定する社会へと向かっていく。日本ももはや「アメリカ病」が流行しはじめたようだ。そうした意味でも この映画の価値は高い。

<作品データ>
スタッフ
監督/ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス
製作/アルバート・バーガー
デヴィッド・T・フレンドリー
ピーター・サラフ
マーク・タートルトーブ
ロン・イェルザ
脚本/マイケル・アーント
撮影/ティム・サーステッド
編集/パメラ・マーティン
音楽/マイケル・ダナ
キャスト
グレッグ・キニア
トニ・コレット
スティーヴ・カレル
アラン・アーキン
ポール・ダノ
アビゲイル・ブレスリン

<2006年アメリカ/カラー/101分/配給=20世紀フォックス>

メイルちょうだいケロッ

トップに戻る   ホームヘもどる